木曜日

今日はムシムシ、低温サウナの中にいるようでした。

ちょっと、息苦しい感じでした。

こういう時は、なんか気持ち良い運動をして、スッカっと汗でもかきたいものです。

今日は天気が悪かったので何処にも行きませんでした。

「だから歩数も出費もゼロです」って、書きたかったけれど、新聞屋のおばちゃんが集金に来ました。

現金で、4,220円です。 仕方ないですね。

今日は雨でしたが、関空、離着陸が出来て良かったですね。

G20のことで心配をしていましたが。

明日も良いことがありますように。

今日も投稿、ありがとうございました。

史朗さん、日本海側のAさんて、誰でしょう?

それから、Nさんが喫茶店をしていたのを知っていますか。

もし、書く機会がありましたら、その時のことも履歴書に書きます。

もーちゃん、待っていますよ。

トッピングの方は僕が作ります。 

麺はもーちゃんがゆでてね。 頼みます。

「かけふの履歴書」

新世界の橋で、初めてゲイの友達が出来ました。 

通称名はYPで、私より1才年下です。

背も横もある男で、若い頃の、なぎら健壱に似ていました。

当時、YPは京都の英語の先生と付き合っていました。

そして、ある時、2人は決別。 理由は知りません。

ある時、橋のマスターから2階の部屋に呼び出されて行くと、英語の先生とマスターがいました。

そして、マスターから、「先生が、かけふと付き合いたいと言ってはるけれど、どうする?」の問いでした。

私は、ちゅうちょなく断りました。

「友達が別れた人と僕が付き合うって変だから、止めておきます」と。

その後もYPとは友達同士でしたが、先生が若い子と付き合い始め、その子にゲイスナックをする資金を出して上げたという話が人伝にありました。

そのことに関して、「もったいないことをしたね」と、2人で話し合いました。

YPに関して、一番驚いたのはYPと、難波のプールに行った時のことです。

YPがパンツ一丁になりベンチに寝転がって体を焼いていたのですが、その姿がまるで白いトドだったのです。 

それを見て、私は絶句。

彼は着痩せしていたようです。

あまりの驚きで、私は裸のYPの側には近づかないようにしていました。

でも、10年後くらいに岡ちゃん、YP、YPの相棒と4人で海水浴に行きましたが、その時はもう、YPの体は見慣れていました。 慣れって、凄いね。

でも後日、SMのMのSちゃんが言っていました。

「YPのペニスは物凄く大きかったよ。今まで見た中では一番大きかった」と。

想像を絶する長さと、太さだったそうです。

そのYPも60半ばで、前立腺癌で死んでしまいました。

YPの家系はみんな、癌で亡くなっているので仕方がないのかもしれません。

私は、新世界の橋のマスターが、「あの人と行き」と言われれば、ちゅうちょなく遊んでしました。

今もそうですが、歳とか、体型とかの好みがあまり無い私にとって、マスターが推薦をする人は、みんなOKでした。

マスターの保証付きですから。

褌一丁で店を手伝っている時、カウンターの外に10人のお客さんがいたとしたら、8人がプレーをした人の時もありました。

ある時、全国の漁師に網を売り歩いている人(中肉中背・営業)が、橋に来ました。

彼と意気投合。 私のマンションに連れて帰りました。

彼はSで、私がM。

それ以後、彼は仕事の帰りに大阪に来る度、私のマンションに泊まりに来て、SMごっこをしていました。

彼の会社が赤穂にあったので、彼に誘われて赤穂温泉に泊まりに行ったこともあります。

夜も暗くなり、旅館を出て2人で散歩。

そして、青い月の光を浴びながら♪ 生まれたままの姿で抱き合い、キスです。

みなさんは経験ありますが、砂浜でたわむれた経験。

想像するとロマンチックでしょう。

でも、実際は大違い。 

抱き合っても、くわえ合っても、砂の上でのセックスは、細かい砂が2人の体にまとわりついて情緒もなにもあったものではありません。

お互いの体を、愛撫も出来ません。 砂のせいで。

水中とか、岩場だったら上手く行きますが、砂場は無理でした。

ある秋、熊本に転勤になっていた友達が結婚式を挙げることになり、私は熊本に行きました。

漁網の営業をしていた彼の家が山口県防府にあったので、結婚式の帰りに寄ることにしました。

彼の家に着き、夜になり暗くなってきた頃、私は全裸にされ手首を縛られ、その上にコートを掛けられました。

その姿のまま靴を履かされ、防府天満宮まで散歩です。

彼は私の手首を結んだ紐の端を持って。

そうです、警官が犯人を連行するといった感じです。

人通りは多かったですが、誰も私達のことに気に掛ける人はいませんでした。

彼は興奮していたことでしょうが、私は何も感じませんでした。

漁網の営業していた彼とは、防府以後、音信不通で会うことはなくなりました。

彼が定年退職でも、したのかもしれません。

SMでは、最初は皆、Mを経験してからSに転向します。

私はMをしながら、「自分はMではなくSだ」と、気付き始めていました。

何故かと言うと、縛られても何をされても、気持ちが覚めたままで興奮しなかったからです。

それより、これでもか、これでもかとSとしてMに奉仕をして、相手がヒーヒー、喜ぶのを見るのが好きだったからです。

なぜ、Sを志していても、Mを経験しなくてはいけないかというと、手加減を知る為です。

縛りにしても、滑車で吊るすにしても、一つ間違えれば命に係るからです。

 

ロウソクでも、垂らす位置が低いと、熱いままのロウが垂れて火傷をするからです。

縛りも、きつ過ぎたら跡が残るからです。

友達の結婚式に参加をする為、熊本に行った時の話を書きます。

大阪からフェリーに乗り、別府に朝、着きました。

そこからバスに乗り阿蘇越え、熊本駅に夕方、到着。

私は大阪のゲイスナックに駅の公衆電話から電話をして、ゲイマップに載っている熊本市内のゲイスナックを教えてもらいました。

私は方向も分からないままテコテコ歩きました。

あった、あった目印の三和銀行が。 

そこから脇道に入り普通の民家の中を進んだら、多分、ここであろうと思われる1軒屋がありました。 

ほん、普通の民家でした。

「済みません」と、ガラガラと戸を開けると土間があり、二間の部屋の襖を外し一間にして、畳の上に長テーブルを並べ、6、7人の男の人が酒を飲んでいました。

上座には、この家の主であるお爺さんと、連れのお婆さんが座っていました。

ここがゲイマップに載っていたゲイスナックでした。

大阪から若い子が来たと、私は大歓迎をされました。

この続きは明日、書きます。 つづく